2002年12月30日

1471年(アメリカ大陸発見の20年前)、ポルトガル人が初めてガーナを訪れました。金、象牙、スパイスの貿易のためです。それは年々盛んになり、大きな倉庫が必要となり、エルミナ城を建てました。 今日、私たちはそのエルミナ城に行きました。首都アクラからレンタカーで2時間ほどの漁村にそれはありました。大きな立派なお城です。しかしその後、奴隷貿易の拠点として使われていったのです。


なぜ奴隷貿易が始まってしまったのでしょうか。1441年、ポルトガル人の探検家が、10人のアフリカ人(国籍は不明)をポルトガルへ連れて行きました。それは教育などの目的だったといいます。しかし、結果的に引き金となってしまいました。 アメリカ大陸が発見されてからは、ポルトガル人、スペイン人がプランテーションを始めました。当初の労働力はインディオでした。しかし1510年、なんとカトリックの聖職者がこんなことを進言します。「アフリカ人の方が暑い国になれている」そこで西アフリカの人々が働き始めました。期待どおり、よく働いたので、あのような奴隷貿易が西アフリカを中心に本格化したのです。ここガーナも残念ながら例外ではありませんでした。
ガーナの若い男女は、強制的にここエルミナ城へ連れて来られました。遠い道のりを、手錠をされ、鎖で繋がれ、1列になって延々と歩かされて来ました。その様子が描かれた絵や、当時の手錠などが陳列された展示室が、エルミナ城の中に設けられています。

城に着くと、男女別に狭い部屋に押し込められました。その部屋の中でも、手と足を鎖で縛られ、横になれないほど大勢な人が押し込められました。東京の満員電車ぐらいだったのでしょうか。もちろんトイレに行けず、その場に垂れ流しです。多くの人がその部屋で亡くなっていきました。私は、その部屋に入るのを躊躇しました。しかし、今回でエルミナ城訪問4度目の夫は、どんどん部屋の奥へ入って行きます。
私は夫のベルトを握りながら、暗い部屋の中を歩きました。 部屋の奥には、小さくて細い鉄格子の扉がありました。扉の外に船をつけ、生き残った人々を乗せ、アメリカなどへ「商品」として送りだしたのです。夫はこの扉の前で言いました。「今、アメリカで生まれ育った黒人の祖先は、この扉をくぐったことになる…」

中庭をはさんで、男奴隷部屋の向かい側には、どくろマークの付いた部屋もありました。反抗した人を見せしめのために入れる部屋でした。この部屋に入ったら最後、餓死するまで出れませんでした。何人も同時に入れられる場合は、最後の一人が餓死するまで扉が開けられることはなかっと言うことです。最後の一人となった人の恐怖と苦痛は、筆舌を超えるものであったでしょう。

階段を上がり、城の2階へ行くと大砲が並んでいました。ポルトガル人がオランダ人との戦争の時、使ったのでしょうか。 大きな高い波が城の下まで打ち寄せています。ここから人々は運び出されました。昔観た映画「ルーツ」の1シーンを思い出しました。船が嵐に会い、重量を減らすために、荷物と一緒に、一部の人が海に放り込まれた場面です。船に乗ってからも地獄。船を下りてからも地獄は死ぬまで続きました。
3階に上がると、急に心地よい風を感じました。「総督は、城の中でも1番いい所を、自分の部屋にしていたんだ」夫がそう言って指差した所は、台所、寝室、会議室などに分かれていました。ベランダもあって、下を見ると女性達が押し込められていた部屋の入口が見えました。総督は、女性達には部屋を出て日光浴をすることを許しました。このベランダから総督は、日光浴する女性達を物色し、夜の相手を選んでいたのです。あの寝室に無理矢理連れて来られたのでしょう…。

なんて人間って愚かなのでしょう。これは心を持つ人間がする行為ではありません。しかし日本軍も、アジアの人々を中心に、残忍な虐殺をしてきました。そして今も、世界中のあらゆるところで、差別や戦争は続いています…。
エルミナ城には1時間いました。出た時、正直ホッ!としましたが、しばらく重い気持ちが離れませんでした。両親がアウシュビッツを訪れた時、髪の毛や小さな靴を見てつらかったと言っていたことを思い出しました。昔、広島の原爆記念館を訪れた時、熱で歪んだ水筒などの遺品を目にして、こんな気持ちを持ったことを思い出しました。本当は行きたくありませんでした。しかし、私たちが行かなくては行けない場所の一つだと思いました。行って歴史を繰り返さないように、心に刻みつけなければならないと思いました。

現在、世界遺産に指定されています。城は改修を繰り返し、大切に保護されています。
(参照:「The Realitise About Elmina And The Castle」Mr.Komla Pajibo)
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