アキさん旅行記
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メールマガジン「アフリカオンライン」http://www.mag2.com/m/0000013255.htm
の「アキのアフリカ旅行記 NO.33 待望のハラレ到着」より
アフリカオンラインと著者の許可を得てここに転載
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●アキのアフリカ旅行記 NO.33 待望のハラレ到着

とうとうジンバブエにたどり着いた。
ザンビアのルサカあたりから感じ始めたことだが、アフリカ南部の「発展」ぶり
には目を見張るものがあった。これまで自分が見てきたブラックアフリカの
国々とは、まったく質の違う「洗練」されたアフリカがそこにはあったからだ。

ザンビアの首都ルサカから、ジンバブエの首都ハラレまでは、国際バスが
走っているのだが、そのバスの豪華さと乗り心地の良さにまず感動した。
エアコンが効いているうえに、なんとビデオも見れるではないか!
車窓から見える景色も、ヨーロッパのどこかの田園風景と見間違えるほどの
美しさだ。それに開花したばかりのジャガランダの紫色があいまって、まさに
「アフリカンヨーロッパ」の優雅な雰囲気が漂っている。
ハラレの街中は道も建物もきれいに整備されており、人々もこぎれいな格好
をしている!そんな中にあって、急に自分のいでたちが気になり始めた。
大きなカバンを前後に背負って、ヨレヨレシャツと穴の空いたアーミーパンツ。
自分の服装などこれまで全く気にならなかったのに、ここでは妙に恥ずかしさ
を覚えた。
今までとは旅のスタイルを変える必要がありそうだ。しばらくここで心身ともに
リフレッシュしてから南アフリカのケープタウンを目指そう!

私が泊まったのは、バックパッカーの間では知らぬ者がないほど有名な?
その名もパオパオロッジ。
エジプトのサファリ、ケニアのイクバルと並ぶアフリカ三大日本人宿の一つだ。
日本語会話に飢えている私としては、当然の選択だった。
ワォー、日本人だらけだよ!
久しぶりに見る大勢の日本人に、うれしさよりも思わず緊張が走る。
パオパオロッジ、1ヵ月の沈没生活はこうして始まった。

パオパオでの毎日は、基本的には飯食って寝るだけという、働き者の方
にはその退屈さに耐えられないであろうほどの怠惰さであった。
宿には冷蔵庫もキッチンもあるので、スーパーマーケットで必要なものを
買ってくれば、自炊ができるようになっていた。というわけで、最初の頃は、
食べたいものや飲みたいものを山盛り買い込んできたものだ。
食事の度にわざわざ外出しなくて済むことが、素直に嬉しかった。

そうだ、スーパーマーケットについて触れておきたい。
宿のすぐ裏にはスーパーがいくつもあって、欲しいモノは「なんでも」手に
入れることができた。最初来た時は、品物の多さに私は純粋にぶったまげて
しまい、絶句してしまったくらいだ。今までとのギャップに、一瞬ここはアフリ カ
ではない、とさえ思ったほどだ。モロッコでもここまで豊富な品揃えのスーパー
はなかったし、ブラックアフリカに入ってからは言わずもがな、であったから。

ここで一言アドバイスを。
アフリカ旅行ビギナーの方は、まずはジンバブエを含めたアフリカ南部から
始めたらどうだろうか。日本からアフリカに来た場合、南部がもっとも適応
しやすい場所だと思われるからだ。もし私がブラックアフリカに妻を連れてくる
としても、やはりここ以外には考えられない。アフリカに免疫のない人の場合、
他の地域からでは適応できずに倒れてしまう可能性が高いからだ。
ただし、試練?を求める人は、南部では物足りないだろうから、ぜひとも
西部へどうぞ!

さて、パオパオでの共同生活に話しを戻そう。
ここでの私の最大の楽しみ、それは夜の"シェアめし"だった。
お金を出し合って、裏のスーパーまで食材を買いに行き、日本食「もどき」を
皆で作ってワイワイ食べるのである。
最初のうちは、他のひとが作ってくれた料理を食べさせてもらうだけだった。
せいぜい皿洗いで参加するくらいが関の山だったのだ。
なにせ、ご飯といえば子供の頃は母親に、学生時代一人暮らしの時は食堂
のおばちゃんに、結婚後は嫁さんに作ってもらうもの、と信じて疑わず、
ぬくぬくと生きてきた幸せ者?なので、自分は料理とは無縁だと思っていた。
でも皆が料理しているのを見ているうちに少しずつ興味が出てきたのである。
調味料や香辛料の使い方をみていると、要は各人の好みで味付けしていて
決まりなどなく、作り方は各々違っている。もしかしたら自分にもできるのでは
ないか、と思えてきたのだ。
そんな訳で、私もまずはカレーや野菜炒めなど超カンタン料理からトライして
みた。初めてにしてはまずまずの出来で、食べられないほどではなかった。
というか、自分の手で作ったものは、不味くても食べられる、という事を発見。
以前妻の味付けが自分の口に合わないと、ろくに手をつけようともせず
に、即席ラーメンを食べたりしていた自分の身勝手さを素直に反省した。
よし、今度日本に帰ったら妻に自分の手料理を食べさせてやろう。
この時だけは、ほんとうにそう思った。

さて、パオパオロッジ3日目の朝に時間はさかのぼる。
目が覚めてテントから這い出してみると、長い髪を後ろでひとつに束ねた
後ろ姿が目に入ってきた。むむっ、どこかで見たような頭だな、と思って
近づいてみると、やっぱり、あのクマさんだった!

クマさんとは西サハラ越えの時に初めて出会った。彼は、まだ29歳だが、
既に日本を離れて6年以上というベテランバックパッカーだ。このアフリカが
日本帰国前の最後の旅だという。
途中一年間旅行資金を稼ぐためにニューヨークでバイトしていた経験もあり、
旅を始めたばかりの私は、その「輝かしい」経歴をうらやましく思ったものだ。
彼のように目鼻のはっきりした、濃いーラテン顔をした男が、もし髭を伸ばし
たらきっと本物のクマにみえることだろう。
彼とはその後コートジボアールのアビジャンで再会していたので、ここで
三回目ということになる。
アビジャンで別れる際に、スーダン経由でケニアに抜ける予定だ、と言って
いたので、ここで会うことになるとは思ってもみなかった。
その彼が、私を見るなり、叫んだ。「アキさん、俺まじで大変だったよ!」

実は彼もザイールに入っていた。ただ私とは違うルートで。
前にも述べたが、カメルーンからザイールに行くには大きく二つのルートが
ある。一つは私が採った中央アフリカ経由ルート、そしてもう一つが、クマさん
の採ったガボン・コンゴ共和国(以下コンゴ)経由ルートだ。
私がカメルーンを出発する時は、クマさんルートのほうが、ザイールに入る
には安全と考えられていた。現にその時知り合ったスイス人自転車野郎
ペドロも、このルートに変更していたのである。

ところが、この彼のルートのほうが超悲惨だったのだ。
ガボンからコンゴへはガイドブックによれば、陸路で入国できるはずだった
が、実際には、ゲリラの出没など治安の問題で道が封鎖されてしまっていた。
といって、今更戻るわけにはいかないクマさんは、苦心の末ローカルから
聞き出した石油の密輸ルートを利用して、強引にコンゴに密入国を敢行!
このルートを見つける間に、ベテランの彼もとうとうマラリアに罹りダウンして
しまったことも付け加えておかねばなるまい。
さて、密入国は一応成功した。しかし、見かけは国籍不明の彼もやはり
日本人だ。律義にも入国スタンプをもらおうとポリスに出頭したところで、
そのまま牢屋に1週間ほどぶちこまれてしまった。

釈放された後、なんとかザイールの首都キンシャサに辿り着けたはいいが、
ここでも治安の問題から、街は厳戒体制が敷かれていて、自由に旅ができる
ような空気は全くなく、他に移動するためにはバカ高いトラベルパーミットを
取得せねば一歩も動けない状態だったという。
パーミットを取ったところでどれだけ有効か分かったものではない。
この時のザイール国内情勢では、いったんキンシャサを離れたら、その先
どんなトラブルに巻き込まれても不思議ではなかった。
打開策を見つけられない彼は、キンシャサに缶詰状態のままで1ヵ月近くを
過ごした。最後は開き直るしかなく、アフリカ最高のビールと噂される幻の
ビール"ザイールプリムス"を毎日飲んでいたそうだ。
うらやましいような、気の毒なような・・・。

結局、クマさんは、やっと見つけたエアカーゴに便乗させてもらい、ザンビア
国境に近いルブンバシに強硬脱出した。しかし、そこでもパーミットなしで
入ってきた罪で、即牢獄行き!
最後は、ザンビアとの国境まで引っ立てられそこで身柄を解放された、という
かザイールを追放されるようなかたちでの、無罪放免となった。
ザンビアのイミグレで、ザンビア人から「ウェルカム トゥー ザンビア!」と
優しく声をかけられた時には、さすがの彼も思わず目頭を熱くしたそうだ。
サバイバルワールドを数ヶ月にわたってさ迷ったクマさん、ほんとうに
お疲れさんでした。
この後、彼もパオパオロッジで私同様「リハビリ」生活を送ることになった。
幸い私は1ヵ月弱でパオパオを「退院」できたが、彼は3ヵ月近い「入院」を
余儀なくされた。これも仕方あるまい・・。

ともかく無事に再会できてよかった。
ザイール越えの健闘をたたえ合い、再会初日の夜は遅くまで祝杯をあげた。

(追記)
ハラレでの再会を期して別れた、あのスイス人自転車野郎ペドロとは、結局、
会えずに終わってしまった。
聞くところによると、彼は上記の理由でザイールに入れずに、空路でコンゴ
からナミビアに入国したらしい。それはそれでよかったのだが、その際預けた
自転車がどこかに「消えて」しまって、その後「ただの」バックパッカーとして
旅をするしかなくなったそうだ。それでも元気に南アフリカ共和国に向って
いったらしい。
縁があれば、またどこかでバッタリ会えることだろう。ペドロ、元気で
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