ガーナの学校
ガーナ分家頁 ジンバブエ分家頁 その他渡航記録 連絡所ログ Africa Festival 2002 リンク集 蔵書リスト 自己紹介 お知らせ

 

中和適定実験
セカンダリースクール4年生

LET'S TRY

私は、昭和59年(1984年)度1次隊ガーナ理数科教師隊員として7月にガーナに派遣された。派遣された学校は、VOLTA州のKPANDUにあるビショップヘルマン中高等学校であった。生徒数700。一般化学、実験化学、物理化学、無機化学を2年間教えた。

Bishop Herman College 校章

校歌

1

Come join with us to sing
In praise of BIHECO
Where God and Light we seek
In spirit bold and free
Hail BIHECO, Hail BIHECO, Hail BIHECO
Mater, Mater Alma

2

Thy loving children true
All rally neath thy sail
And pledge as loyal crew
To live and die for thee
Hail BIHECO, Hail BIHECO, Hail BIHECO
Mater, Mater Alma

 
イオン化エネルギーと元素周期律表
TEACHING CHEM.
高学年理系クラスへの物理化学の授業
物理化学


<環境>
 

学校は街から離れた丘の上。先生のほとんどと生徒全員が学校に住んでいた。最初の一年間は半径100KM以内に日本人は一人もいなかった。電気の送電線は来ていたが、よく停電した。雨季の始めの雷のシーズンは特に頻繁に停電した。水道も無い、雨水生活。もちろん、ガスはなく停電の時は炭か灯油で調理した。ジンバブエの学校と違って、学校の敷地内に住んでいても先生は自炊だ。キャンプみたいで楽しそうというかもしれないが、毎日続くと苦痛になってくる。


市場は、四日に一度しか開かれない。赴任当初は、市場が四日に一度しか開かれないなんて知らなくて、買い物の機会を逃してしまい、一週間ほどバナナとオレンジと首都から持ってきていたビスケットで過ごした。当時は、小麦粉も不足しており町で店先に積まれたパンを見掛けることは希だった。1984年首都でさえレストランでアイスクリームを見つけるのは難しく、たまにどこどこの店にあるという噂を聞きつけ、何キロも歩いて行った。(隊員ひたすら歩く。特に上京した地方隊員は歩いた。)

 

時は、1984年。ガーナ苦難の年。1981年12月31日のクーデター後の政権が安定しはじめたと思ったら、干ばつ、更に悪いことに石油が出るナイジェリアからは外国人排斥運動が起こり、ガーナ人が100万人追い出されてきた。そして、しばらく立つと干ばつによるニジェールやマリからの難民まで来はじめた。
そんな時期だから、町にはほとんど何も無かった。サラダ油一缶でさえ入手に一週間かかってしまった。首都のデパートの棚にデッキブラシだけがずらっと並んでいたのを唖然として眺めていた自分をよく憶えている。体重も赴任半年後の健康診断で計ったら13キロ減少していた。

 

こう書くとさぞつらい2年間だったろうかと思われるかもしれないが、住めば都。ガーナの辛い料理にも慣れ、雨水に慣れ下痢の回数も減り、ガーナ産ビール飲み、町に知り合いができ、行きつけのチョップバー(現地食飯屋)ができ、ボルタ州名物発酵食品バンクーのすっぱさが病み付きになり学校のシステムが分ってきて、授業の準備に慣れた頃から体重も徐々に回復した。

 

そして、日本に帰るとどうやってガーナに帰ってやろうかと考えるようになった。そして、それは6年後の1992年に通信エンジニアとしてのガーナ出張で実現した。

学校正面
右から校長先生、地元の医者、
赴任直後の任地訪問で来た医療調整員、私(24歳)
地元の医者に会ったのは、これが最初で最後。
すべての病気とケガは支給された薬を使い自分で治した。

MEDICAL COORDINATOR'S VISIT

当時書いた日記を掲載し始めました。12月に計画している、3回目のガーナ訪問のための心の準備もかねてアップしています。昔のガーナ読んでください。2001-11-08

<再度ガーナへ>


私がガーナの空港ターミナルから出たところで、私の名前を呼ぶ声を聞いた。その声の主は、出迎えの運転手ではなく、私の元生徒だった。彼は、医学生になっていた。空港へは、ヨーロッパから帰ってくる友人の出迎えのために来たといっていた。しばらく、空港で他の元生徒の近況を立ち話しし多くが大学まで進学し、社会人となって働いていると知った。私は200人以上の生徒を教え、6年の月日が彼の名前と顔を記憶から消し去っていたが、彼にとっては学校にただ一人いた外国人先生であったため、しっかりと私の顔と名前を憶えていたようだ。

 

6年ぶりのガーナは、すっかり変わっていた。きれいなホテルが2つも新築されていた。1986年にはその兆しがあったが、こんなに発展しているとは想像していなかった。私は思わず口走った「ここは、ガーナじゃない」。
穴ぼこだらけのアスファルト道路もしっかり補修され、街には物が溢れ、外貨でしか購入できなかった外国産ビールその他の物資も普通の店で調達でき、任地KPANDUに向かう途中5個所もあった検問も無くなっていた。外貨と現地通貨は、自由に街のあちこちにある両替所で両替できる。街ゆく普通の女性の髪型が昔のように単純に縛っただけのものから、お金をかけたストレートパーマへと変わっていた。一部の金持ちではなく、庶民のレベルで豊かになりつつあるようだった。噂では聞いていた「世銀の優等生」ガーナの姿を見た気がした。

ガーナ国旗の中央にあるブラックスターは、サハラ以南のアフリカの中で最初に独立したことを誇りとし、アフリカをリードしていくという意気込みを表している。国連事務総長にガーナ人の

コフィ・アナンさんが就任したことで、アフリカを越え世界のリーダーを輩出したという誇りが彼らの発展にさらに拍車をかけることを祈る。

(祝)コフィアナン国連事務総長   ノーベル平和賞受賞!!!!(2001/10)