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私は、昭和59年(1984年)度1次隊ガーナ理数科教師隊員として7月にガーナに派遣された。派遣された学校は、VOLTA州のKPANDUにあるビショップヘルマン中高等学校であった。生徒数700。一般化学、実験化学、物理化学、無機化学を2年間教えた。 Bishop Herman College 校章
校歌 1
Come join with us to sing 2
Thy loving children true
<環境> 学校は街から離れた丘の上。先生のほとんどと生徒全員が学校に住んでいた。最初の一年間は半径100KM以内に日本人は一人もいなかった。電気の送電線は来ていたが、よく停電した。雨季の始めの雷のシーズンは特に頻繁に停電した。水道も無い、雨水生活。もちろん、ガスはなく停電の時は炭か灯油で調理した。ジンバブエの学校と違って、学校の敷地内に住んでいても先生は自炊だ。キャンプみたいで楽しそうというかもしれないが、毎日続くと苦痛になってくる。
市場は、四日に一度しか開かれない。赴任当初は、市場が四日に一度しか開かれないなんて知らなくて、買い物の機会を逃してしまい、一週間ほどバナナとオレンジと首都から持ってきていたビスケットで過ごした。当時は、小麦粉も不足しており町で店先に積まれたパンを見掛けることは希だった。1984年首都でさえレストランでアイスクリームを見つけるのは難しく、たまにどこどこの店にあるという噂を聞きつけ、何キロも歩いて行った。(隊員ひたすら歩く。特に上京した地方隊員は歩いた。)
時は、1984年。ガーナ苦難の年。1981年12月31日のクーデター後の政権が安定しはじめたと思ったら、干ばつ、更に悪いことに石油が出るナイジェリアからは外国人排斥運動が起こり、ガーナ人が100万人追い出されてきた。そして、しばらく立つと干ばつによるニジェールやマリからの難民まで来はじめた。
こう書くとさぞつらい2年間だったろうかと思われるかもしれないが、住めば都。ガーナの辛い料理にも慣れ、雨水に慣れ下痢の回数も減り、ガーナ産ビール飲み、町に知り合いができ、行きつけのチョップバー(現地食飯屋)ができ、ボルタ州名物発酵食品バンクーのすっぱさが病み付きになり学校のシステムが分ってきて、授業の準備に慣れた頃から体重も徐々に回復した。
そして、日本に帰るとどうやってガーナに帰ってやろうかと考えるようになった。そして、それは6年後の1992年に通信エンジニアとしてのガーナ出張で実現した。 当時書いた日記を掲載し始めました。12月に計画している、3回目のガーナ訪問のための心の準備もかねてアップしています。昔のガーナ読んでください。2001-11-08
<再度ガーナへ>
6年ぶりのガーナは、すっかり変わっていた。きれいなホテルが2つも新築されていた。1986年にはその兆しがあったが、こんなに発展しているとは想像していなかった。私は思わず口走った「ここは、ガーナじゃない」。 ガーナ国旗の中央にあるブラックスターは、サハラ以南のアフリカの中で最初に独立したことを誇りとし、アフリカをリードしていくという意気込みを表している。国連事務総長にガーナ人の
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