ジンバブエ分家頁 ハラレのマダム日記


その7…かわいい居候(いそうろう)

'93年11月8日(月)晴天

 ホテルでの三食昼寝付きの生活から一変して、三食を作り、広い部屋の掃除に追 いまくられる鬼のような毎日になった。日に日にプールの水は汚れてくるし、きれいな芝生は、落ち葉で隠れてしまった。EWEにガーデンボーイを見つけてほしいと頼んではいるが、彼の仕事の忙しさは、一か月前の着任早々から衰えるどころか、一層忙しさを増し、週末もなく働き続けていた。そして私も、広い家と庭を恨み、働き続けていた。

 そんな時だった。所長とEWEが預かっている、青年海外協力隊の一人がけがをしたという事件が起こった。23才の彼女は、首都ハラレに次ぐ都市ブラワヨのハイスクールで、音楽教師をしていた。精密検査と療養のため、ハラレに上京させたのだったが…。「親子ほど年の離れた所長夫妻の家では、何かと気苦労が多くて、療養にはならないだろう。うちでしばらく預かりたいと思うんだけど…」というEWEの相談に、私は手を叩いて喜んだ。EWEは朝でかけると12時間は帰ってこない。広い家に一人でいるのは寂しかったし、家事だけで終わってしまう最近の生活が、とても味気なく感じていた。

 そんな訳で、彼女との共同生活が始まった。わが家は、朝食から楽しい雰囲気に包まれた。EWEが出勤した後も、私たちは汚れたお皿を前にして、朝からいろんなことをしゃべった。家族のこと、初恋のこと、結婚について…。来たその日からすぐに意気投合した。

 彼女の話の中で特に私が興味を持ったことは、彼女の2年弱に及ぶジンバブエでの生活のことだった。ハイスクールの他の先生と同じ寮に住み、現地食のサザ(とうもろこしを粉状にして煮たものの上に、野菜やお肉のはいったシチューをかける)を食べ、慣れない英語で生徒達に音楽の授業をしていた。私よりも5才も若い彼女がである。現地の友達もいっぱい出来て、とても充実した日を送っていたことは、彼女のキラキラした目が何よりも物語っていた。

 昼食や夕食を手伝ってもらいながらも、私たちの話は弾んだ。夕食が終わっても話は途切れず、今度はEWEを交えて、EWEの協力隊時代のガーナ共和国の話、前の会社の出張で訪れたアジア・アフリカ諸国の話を聞いて、夜半まで電気が消えない日はなかった。

 「けがが治るまで、家から一歩も外に出さないでください!」と言う所長には内緒で、私たち二人は、ときどき街へ出かけては買い物をしたり、2年近く日本を知らない彼女のために、ビデオ・レンタル屋から“ボディ・ガード”や“バットマン2”を借りてきた。“冬彦さん・真理夫さん”や“雅子さま”の話も喜んだ。珍しく週末に休みをとったEWEに、私たちは頼み込んで、わが家から車で30分の湖にも連れてもらったりもした。

 私にとって彼女は、ジンバブエに着いて初めてピンときた友達だった。彼女やEWEを通して、青年海外協力隊の精神(2年の任期の間、その土地の住民となり、現地社会の構成員として仕事をするものであって、経済的な利益や見返りを求めず、自ら進んで、開発途上国の国づくりに、自分の持てる力量を注いでいこうということ)の素晴らしさを知ったし、私も彼らのような気持ちで過ごしたいと思った。

 彼女との共同生活は、たった2週間だったのに、半年ぐらい一緒にいたように感じるほど充実した日々だった。彼女が日本に帰る前夜、私は調整員の妻という立場でありながら、こんなことを口走ってしまった。「また、隊員の人がけがをして、うちに住んでくれたらいいのに…」彼女は笑ってこう言った。「あはっ!吾妻調整員も同じこと言ってらっしゃいましたよ」しばらく二人で笑い続けた。

 彼女の見送りには行かなかった。「ハラレは絶対泣くに決まっている。ほかの隊員も見送りにくるのだから、調整員の妻が泣いていては困る」とEWEが連れてってくれなかったのだ。22時10分、イギリス行きの飛行機が欠航したらいいのにと、あきらめの悪い私は、家で一人つぶやいていた。

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