ジンバブエ分家頁 ハラレのマダム日記


  新米添乗員ハラレのジンバブエ日記

その26…ケルン来ジンバブエ特集・5
学者肌のケルン      ’94年10月6日(木)

ビクトリアの滝から飛行機に50分乗ると、ジンバブエの第二の都市ブラワヨに着いた。ここブラワヨから大ジンバブエ遺跡のあるマシンゴまでは、ミニバスを借りて(運転手つき)、陸路で移動することになっていた。ここだけは飛行機が飛んでいないのだ。頼んでいた運転手は、『AZUMA』(新米添乗員ハラレの名字)と書いた紙を持って、私たちを待ってくれていた。

 運転手の名前はエプソン。35才ぐらいの長身のジンバブエ人だ。かっこいい黒皮のジャンバーを着て、ジンバブエ人には珍しく眼鏡をかけている。大ジンバブエ遺跡までは、4時間余りかかったが、ケルンが言うように、彼はとても慎重な運転をしてくれたので、私たちは快適なドライブができ、安心しすぎて昼寝まで楽しんでしまった。

 ジンバブエという国名は、この大ジンバブエ遺跡からきている。それほどこの遺跡は、ジンバブエの誇りとされている。ちなみにジンバブエとは、ショナ語で「石の家」という意味だ。50ジンバブエ・ドル札の絵柄にもなっている。

 昔、ヨーロッパ人がこの遺跡を見た時、あまりの素晴らしさに、アフリカ人が造ったと認めなかったらしい。自分達ヨーロッパ人の祖先がこの地にやってきて造ったのだと言い切り、遺跡をやみくもに発掘し、調査ができないほど荒らしてしまった。アフリカ人が造ったという証拠を消すために…。当時のヨーロッパ人のアフリカ人観がよく表れた事件の一つと言える。この話をした時、ケルンは「ひどいことをする!」と怒った。まったくだ!!

 私たちとエプソンの6人は、遺跡の中の「神殿」と呼ばれた建物を見に行った。小さな石を積んで約10メートルの外壁を造り、内部の神殿を取り囲んでいる。中には王やその妻の部屋があったらしい。

 その神殿から500メートルほど離れた丘の上には、「アクロポリス」と呼ばれる遺跡郡があった。けっこう険しい山道を私たちは登った。かっちゃんは「疲れたよ〜」と言って休んでばかりいる。とっちゃんは「もう少しだから!」と言っている。ケルンは、エプソンと一緒に力強い足どりでドンドン登っていく。ケルンはこの遺跡を一番楽しみにしていたらしい。この遺跡は、アフリカに数々ある遺跡の中では極めて珍しい石積みなのだ。その石積みは、石と石のつなぎにモルタルなどいっさい使っていない。おそらくどこからか運んできて、一つ一つ積んでいったのだろう。ケルンはさっきから、外壁を触ったり、叩いたりして感心している。

 途中、巨大な石というより岩を、きれいに割った遺跡があった。私なんか「すごい!」の一言で終わってしまうのだが、ケルンは、「どうやって割ったんだろうね?」と考え込んでいる。11〜18世紀に造られたものだから、道具も限られているだろう。「水を使ったと思うね」とケルンは結論を出して丘を降りていった。

グレートジンバブエ遠景
           

 ☆参考:『ゴーゴー・アフリカ/下』蔵前仁一著 ★新米添乗員ハラレの一口メモ★ 大ジンバブエ遺跡(GREAT ZIMBABWE):  1959年以後の考古学的および民族学的な調査・発掘によって、ショナ族とロズウィ族が11〜18世紀に建設したことが判明。ジンバブエに最初の石造建築が造られたのは11世紀で、このことは遺跡から中国の宋代の陶器の破片が出土したことから確証されている。ロズウイ族は、新しい技術を用いて、次々に石造建築を建てた。  彼らは金を輸出し、インドやインドネシアから綿花やガラス玉、中国からの青磁や染付磁器、ヨーロッパや近東からの金属製品やガラス製品を輸入した。
☆抜粋:『アフリカを知る辞典』木村重信著

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