ジンバブエ分家頁 ハラレのマダム日記
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新米マダムハラレのジンバブエ日記
その13…新しいチャンネル
’94年1月11日(火)晴天
昨日の試験の結果、私はどんなクラスに入るのだろう。先生やクラスメートは、どんな人たちだろう。不安と期待の半々だ。8時過ぎに家を出て、8時半の始業時間にぎりぎり間に合った。
校舎にはいると、教室のドアには一枚の紙が張ってあった。先生の名前とクラスメートの名前が書いてある。8クラスめで、やっと私の名前を見つけた。ドアを開けると、すでに10人ほど席に着いていた。白人の背の高い男の人が私に、「オハヨウ」と言った。この人が先生らしい。そして彼はどこから来たのかと尋ねた。日本からだと言うと、なぜかとっても嬉しそうに微笑んだ。
自己紹介から始まった。モザンビークの人が4人。ブルンディが2人。ナミビアが1人。ポルトガルが1人。ブラジル人が1人。年齢は、19才の女の子から35才のおじさんまで。職業も、学生や学校の先生、宣教師、私のような専業主婦までいろいろ。この国の住民は私だけで、彼らは英語を勉強するためにこの国のこの学校にわざわざやってきたらしい。
アフリカの近隣諸国では、この学校は英語教育で有名なのだと聞いて驚いた。私が申し込んだコースは、外国人のための英語科で、ポルトガル語やフランス語圏の生徒が多いように感じた。他に、タイピング科やコンピュータ科などがあり、日本でいう、各種専門学校というところだろうか。1学期から3学期まであり、月曜から金曜日までの週五日、私は朝の8時半から10時半までの2時間コースにした。クラスメートのほとんどは、8時半から午後の3時半までの5時間半コースだ。一番短い人で7週間、長い人で14週間(1学期間)したら、国に戻る。
彼らはやはり、私のように学校で英語の授業があったのだが、英語が得意だと国に戻っても就職でも有利だし、モザンビークのヒジノ(35才の男性)は、学校の先生なのだが、英語も教えなければならなくなり、研修という形でここに来たらしい。みんなとっても明るい。日本人のようにシャイじゃないのだ。授業中も大きな声でジョークを言っては笑わせてくれる。朝の不安な気持ちが一変に飛んで行ってしまった。
ジンバブエに来るために退職してきたから、『ハラレ』という個人のチャンネルが消えてしまって、私には『EWEの妻』というチャンネルしかなかった。けれど、この学校に通い出したことによって、昨日から『ハラレ』というチャンネルが復活した。ここでは「EWEさんの奥さん」とは言われない。先生もクラスメートも「
ハラレ」と呼んでくれる。EWEの奥さんとしてではなく、私個人に接してくれる。そして、私が好きになれない肩書き『専業主婦』から『学生』へと移った。
学校から帰ってきて、隊員が数人遊びに来た。彼らにクラスメートや先生のことをこまごまとしゃべり続ける自分を見つめながら、本当に喜んでいる自分を感じた。この新しいチャンネルは、今の私にとって本当に良かったのだし、必要だったのだと再確認した。